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社会・政治系の読書記録

院生の個人的な読書記録です。専門外のものばかり読むこともあって、全体的にかなり拙いです。

小室直樹・山本七平『日本教の社会学』

本書は、社会科学のあらゆる分野に精通する知の巨人小室直樹と、『空気の研究』で知られる評論家山本七平との対談本です。小室氏はかつて何かの本で「山本七平という人は、博覧多才というわけではないが、面白いアイデアを出す」といった趣旨のことを仰っておられた・・・ような記憶があります。そうした発想力の山本を、社会科学を包括的に学んだ小室が学問的な知識でサポートするような形で議論が進んでいきます。

 

 

主題は「日本教」とはどのようなものかということを考察し、それによって日本社会の様々な特徴を説明していくことです。「日本教」はそもそも山本が作った言葉であり、他の文化における宗教と機能的に等価だが、表面化しないために捉えにくいものです。構成としては、まず日本のここがヘンであるといった話がなされます。例えば民主主義といっても西欧人から見ると全くヘンテコな民主主義を日本人はやっているといった話や、軍国主義と言ってもやはりヘンテコな軍国主義もどきであったといった話です。次いで「日本教」についてより詳しい考察がなされ、その教義や救済儀式、神義論について、組織神学的な検討がなされます。最後に、こうした「日本教」の特徴が、日本の近代化にどのように影響したのかについて述べられています。

 

以下、特に注目したいポイント3点について記録します。繰り返しになりますが、本部ブログは筆者の個人的な読書記録としての性格が強いです。したがって、本の全体的な内容についてというよりも、筆者が個人的に面白いと思った点について重点的に記録します。

 

1点目は日本の民主主義の奇妙さについてです。この点についても関連しますので予め触れておきますと、全体として本書はかなり丸山真男の議論、特に「作為の契機の不在」論に強い影響を受けていると思われます。この「作為の契機の不在」とは、日本においては誰かがはっきりと意志を示し、決断をするということがない、むしろなんとなく流れで全てが決まっていくという様を指しています。ところで著者らによると、民主主義とはもともと西欧においては責任者を明確にし、決断をするという要素を多く含んでいる。したがって、西欧の民主主義においては多数決は多数の意見の中から1つに絞り込むための方法だが、これに対して日本においては多様な意見を折衷したものにみんなで同意するという傾向が強いといいます。また空気で意見が変わりやすいですし、決定の責任者も明確ではなくなるために、一度行った決定が、すぐに覆されやすいともいいます。このあたりの議論は、実際のところどうなのか、やや日本特殊論に傾き過ぎるきらいがあるのでhなあいかとも思いますが、なかなか興味深い話ではあります。

 

2点目は内部規範の一般的規範に対する優越についてです。内部規範とは、ある集団の内部においてのみ妥当する規範、一般的規範とは集団の内外を問わず、常に妥当する規範です。そして、日本においては内部規範が強く、一般的規範が弱いため、例えばかつての帝国軍のように、組織における独特の主義主張が強くなり、またその組織の代表が他の組織の代表と交渉する際にも、内部規範が強すぎるために、各組織の利害を頑迷に主張し合うのみに留まり、建設的な交渉が事実上不可能だったのです。これについて著者らは、日本にはまだ共同体が根強く残っているからだと言います。各共同体にそれぞれの内部規範があり、それが一般的規範に対して優越している。そして、一般的規範が優越する社会が市民社会であるとし、日本は市民社会を形成できていないといいます。どうでしょう、僕はあまり組織に参画した経験がないのですが・・・。例えば学校の部活動とかって、典型的な内部規範を備えた組織ではないでしょうか?よくわかんない謎のルールがあったりして・・・。

 

3点目は、日本教の教義について。著者らは、日本教の教義は「空気」であるとします。このあたりは、やはり丸山真男が『日本の思想』で述べていたことにかなり近い気がします。この「空気」という概念は、『「空気」の研究』で山本氏が提示したものです。教義というのは人間にとって所与のものであり、絶対的な行動規範となるものだといいます。そして日本人は「空気」にしたがうという。「空気」の支配とは、その場その場の「空気」次第でなんでもアリというわけですから、これほど教義らしからぬものはないわけですが、日本人にとってはそれが絶対的な行動規範になっている。また分析枠組みとして、「実態語と空態語」の対比が登場します。これは「ホンネとタテマエ」との対比に近いものですが、静的な「ホンネとタテマエ」に比して、より動的でダイナミックな枠組みだといいます。つまり、「ホンネとタテマエ」はそう簡単には変わらないけれども、「実態語と空態語」は「空気」ですから、その場の状況に応じてパタパタ変わるわけです。

 

これに関連して、日本には偽善者はいないという指摘が面白い。例えば西欧であれば、偽善者の例として、一生涯真面目だった神父が日記を読んでみると無神論者だった、というようなことがある。ここに象徴的に示されているように、偽善者は単に「ホンネとタテマエ」が異なるのみならず、その違いが固定的なんですね。これに対して日本では「実態語と空態語」がパタパタせわしなく移り変わりますから、ここでいう意味の偽善者はあり得ないわけですね。ここの記述を読んで、中西寛『国際政治とは何か』の記述を思い出しました。これは国際政治学の入門者なのですが、ここに「偽善」と「独善」の違いについての記述がありました。偽善は、タテマエを掲げておきながらホンネの利害を追求する行為で、これも手放しに称賛できるものではありません。しかしまだタテマエとホンネの区別があるだけマシな認識をもたらします。ところが中西著でも日本人は偽善的ではありえず、むしろ独善的であるといいます。独善はタテマエとホンネの区別もなく、欧米人は偽善的であり、それを暴き立てる自分たちこそ真の正義であるという態度です。これはタテマエとホンネの区別もないわけですから、ただ盲目的に自分たちの正義に従うのみですよね。中西氏が山本氏や小室氏のこういった議論を踏まえておられたかはわかりませんが、面白いつながりを見つけた気がします。

 

小室氏の著作は『日本人のための憲法原論』も面白かったので、また記録するかもしれません。