社会・政治系の読書記録

院生の個人的な読書記録です。専門外のものばかり読むこともあって、全体的にかなり拙いです。

河野哲也『<心>はからだの外にある』

著者の河野哲也氏は、心の問題を専門に取り扱っている哲学者の方です。前回紹介した

長谷川眞理子・山岸俊男『きずなと思いやりが日本をダメにする』に続いて、「心でっかち」批判あるいは「心理主義」批判の一冊です。より具体的に言えば、デカルトに端を発する現代の心理主義的な風潮に対して、ギブソン生態学的心理学を対置して、心理主義的な風潮を批判します。そして、パーソナリティや個人の内面について、新たな(というか本来的な)意味を提示してくれる書です。

 

 

さて、ここで著者が批判する心理主義とはなんだろうか。社会学者の森真一の定義を引用して著者は、「社会から個人の内面へと人々の関心が移行する傾向、社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向、および『共感』や相手の『きもち』、あるいは『自己実現』を最重要視する傾向」であるとしている。そして、この心理主義の態度は、社会的な問題を個人の内面的な問題にすり替えてしまう効果を持つこと、当ブログでは度々触れている社会学的想像力の欠如という問題を孕んでいます。また、心理主義の態度から抜け出せないために、「なぜ人を殺すことはいけないのか」といった基本的な問題に回答できなくなるという例を、著者は挙げています。そこで、心理主義が見落としているものとして、①他人の存在・②身体性の2つを挙げ、これらを踏まえた心の哲学が必要であると著者は説きます。以下、筆者が個人的に重要だと思ったことを3点に分けて記録します。

 

まず1点目に、ギブソン生態学的(エコノロジカルな)心理学についてです。ギブソンはアメリカの心理学者ですが、生態学の発想を取り入れた、新しい心理学を創設した人物です。その中心的な仮説は、動物は環境に埋め込まれた存在であり、動物と環境との相互作用によってその能力が規定されるが、人の心もその例外ではない、という点です。つまり、人の心も環境との相互作用によって規定されるものであって、心理主義が考えるように、心が自律して世界を回しているわけではありません。

 

ギブソンの理論で注目すべきは、アフォーダンスの概念と直接知覚の概念だといいます。アフォーダンスとは、「動物との関係において規定される環境の特性」のことを言います。より具体的には、例えば棒はある動物に対しては掴むことをアフォード(提供)し、また穴はある動物に対して住処をアフォードするように、ある動物にどのようにに行動すべきかを指し示す環境の特徴がアフォーダンスです。ですから、基本的にはアフォーダンスは環境の側に存在する要素で、それと動物の能力との相互作用で動物の行動が決定されます。また直接知覚は、我々の感覚が実在の世界を直接把握している、という発想です。これに対になる発想は間接知覚で、こちらが認識論の世界では主流の立場を占めています。この間接知覚論は、人間は外界の情報を直接知覚するのではなく、一定の変換を施された後の情報を認識しているといいます。しかし、この間接知覚論は現実世界と心の世界との二元論を導きます。そして、これこそ心理主義の温床です。これに対してギブソンは、我々は外界からの情報の変化項と不変項を識別し、後者を特定することで環境を把握するといいます。

 

これに関連して、著者のデカルト流純粋自我批判を見ておきましょう。デカルトは「われ思う、ゆえに我あり」の言葉で有名です。デカルトは疑いえない確実なものから全ての論証をはじめるべきだと考えました。そして、その疑いえないものとは自分自身の存在です。いろんなものを片っ端から疑っていっても、その疑うということをしている自分の存在だけは(デカルトには)確からしく思えた。この「私は思う」という作用をコギトと呼びますが、このコギトは純粋自我と呼ぶべきものです。つまり、ギブソン流のエコノロジカルな自我とは全く異なります。これに関して著者は、デカルト流の自我の考えが妥当ではないことを、あれこれ理由を挙げて示します。しかしここでは印象的だった1点のみ触れることにします。すなわち、「エコロジカルな私は死ぬ」のです。デカルトの純粋自我は身体から切り離されたものですから、身体の死と自我の死とが切り離されている。一方エコノロジカルな自我は環境との相互作用で生じるものですから、体が死ねば自我も死ぬのです。これだけでも、デカルト流の自我がなんだかおかしいとことは理解できると思います。

 

2点目はパーソナリティについてです。パーソナリティという言葉は近年よく耳にしますが、この言葉には以外な出自があります。大きく分けて、①精神医学・②知能検査という2つです。精神医学におけるパーソナリティ概念の問題点は明らかで、要するに社会的に問題があるとされる性格を病気であると断定し、これを矯正するという発想が元来あったわけです。また知能検査に関しても、優生学的発想のもとにこれが運用されていたことは確実だといいます。要するに、これらパーソナリティの源流は「社会にとって望ましい性格」になるよう人々を矯正する思想であり、このことが現在用いられるパーソナリティという言葉にも流れ込んでいるといいます。パーソナリティ診断みたいなものもありますが、あれもどれくらい信憑性があるものなのか、よくわかりません。あれって、よくわからないけど沢山質問して回答を主成分分析とかにかけたらよくわからないけど因子が出てきたからそれをパーソナリティと呼んでいるのではないでしょうか。違っていたらすみません・・・。ちなみに、主成分分析はさじ加減で世界を作り変えることができるというのは公然の秘密のようなものではないでしょうか。

 

3点目は人間の内面の表現について。一般に、人の個性について「内面」と「外面」の区別がなされることが多い。しかし、この内面とは何を指しているのだろうか。ここでは、デカルト的二元論と、それに対抗するフロイト流の考え方とがぶつかる。デカルト流二元論は、内面を次のようなものとして描く。①私秘性。外部からは内面は覗けない。②閉鎖性。内的意識の世界は他者とは共有されない。③「意味されるもの」性。内面は、行動によって意味される・ほのめかされるのみである。一方フロイトによると、内面とは抑圧された自己です。人間は社会で生活していると、どうしても自分のしたいことを曲げて、我慢する場面が出てきます。これがいわば自我を抑圧するということですが、そうして蓄積されたものが内面を構成します。こうして抑圧された部分が、抑圧されているということも自覚できない段階まで来れば、それはフロイトのいう無意識ということになります。このように理解すれば、デカルトの二元論では説明できなかった、「他者問題」が解決できます。他者問題とは、他者の心を(私秘性を乗り越えて)どう理解すればよいのか、あるいはそもそも他者に心はあるのか、という問題です。これを解決する道筋を示した点は、フロイトの偉大な点だといいます。

 

さて、心理系の著作の紹介が続きました。内容の記録が尻切れトンボなのはもはや様式美になりつつありますね・・・。可能であれば、もう少し心理系のものを続けて読んでいきたいと思っています。それにしても、「政治系の」読書記録というのが嘘っぱちになりつつありますね。そろそろ政治学のものをちゃんと読んだ方がいいかもしれませんね・・・。